2009年12月15日火曜日

義とせられる、とは義人に造り変えられる事である

「”義とする”とは義に造り変える、或いは義であることを見せるという意味です。・・・罪深い人間の行いは彼を義人に造り変える何の力もないばかりか、かえって悪しき心から出た行為であるため、彼の罪深さを増すだけです。罪を重ねる事によって人は義とせられませんので、罪深い人間が自分の努力によって義とされようとするのは意味がないのです。彼自身がしようと望んでいる、そして彼に要求されている善をなす為には、まず彼自身が義人に造り変えられねばなりません。・・・使徒パウロがすべての者が罪を犯し、神様の栄光を受けられなくなっており、そのために律法の行いによってどんな肉なる者も神様の御目に義とせられる事はないと証言した後、このように続けます。『(我々は)価なしに神様の恵みにより、義とせられる(義に造り変えられる)』と。価なしに義人に造り変えられる・・・それ以外どんな方法があるのでしょう。・・・神様が罪を見逃されないというのは事実です。そんな事をして神様が公正な御方でいられる筈がないからです。しかし神様は遥かにまさった事をして下さいます。罪があるのにそれを見逃すという事をしなくてもすむように、神様はその罪を取り除かれるのです。その人は義とせられて一度も罪を犯さなかったのと同じように見なされます。・・・(ゼカリヤ3:1~5の)汚れた衣を脱がせるというのは、人間からとがを除くというのと同じ意味です。ですからキリストが御自分の義で我々をおおわれるのは罪を隠すのではなく、罪を取り除くという事であるのがわかります。それで罪の許しとは単なる形式や、単に天の記録に罪の取り消しが書き込まれる事ではなく、実際にとがが除かれるという事であり、それが起こるなら彼は義とせられ、義に造り変えられ、確かに一大変化を経験するのです。・・・価なしで与えられる罪の完全な許しは、新生として知られる奇跡的な変化をもたらし、新たな清い心を与えるのです。もう一度尋ねますが義認、罪の許しは何によってもたらされますか?信仰です。・・・この同じ信仰を働かせる事が人を神様の子に造り変えるのです。」

全く変えてしまう

「どうして信仰によって義とされるという教理が、神様の律法を軽視させると考える必要があるのでしょうか。・・・義とせられるというのは心に律法が確立される事です。・・・
キリストは御自分の義を与え、罪を取り除き、御自分の義をそこに据えられます。これはその人を全く変えてしまうのです。」

我々の義はキリストの内のみ見出される

人間は、そして人間のなす行為はそれがどんなもので誰であろうと、信仰のみによって義とされます。律法は人間をその仕業に応じて裁きますが、律法の標準は途方もなく高いので、どんな人間であってもそれに達する事はできません。だからこそ仲保者を必要とするのであって、その御方によって義とせられねばならないのです。・・・この世で人間が必要としているのはただ1つ、義とせられる事です。そして”義とする”というのは実際的な行為で、単なる理論ではありません。。・・・我々は過去の行為を完全としていただくのに、キリストの義を必要としているのと同じく、今、義とされるのにもそれを必要とするのです。